持続可能性について考える 第3回:原子力と自然エネルギーの持続可能性
ご無沙汰しております。
研究員第2号 ケシです。
今日はエネルギーの問題について少し。
日本は再び、原子力によるエネルギー供給確保の道に舵をきったように見えます。
去る、2014年2月に行われた東京都知事選挙で、脱原発を掲げた陣営は大差で敗れました。
これをして、「民意が脱原発にはない」と結論付けられるかどうか、政治的な問題はさておき、安定政治基盤をもつ与党の方針もふまえて、原発再稼働の流れは避けられそうになく、新しい原発の建設にすら道が開かれるかもしれません。
原子力とそれ以外の発電方法の、どちらが持続可能なエネルギーかは判断が難しいところです。
火力には大気汚染(と日本に限定していえば燃料の海外依存からくる原価高騰)、
水力をはじめとする自然エネルギーには供給量と安定供給
という それぞれが重要な問題をかかえています。
日本は今、それらをミックスさせて将来の技術革新に備える という意味では
バランスのとれたポートフォリオを模索している と言えなくもありません。
以前、こうした人類の抱える問題について、2つの学派が存在する という報告をしました。
人類の技術革新を信じて文明の発展や投資を促進するソロー派と、
自然に対する謙虚さを背景に節約の美徳と必要性を主張するマルサス派です。
仮にエネルギー問題を、原発推進派と、原発反対派の2つの対立に単純化(※)するとして、どちらがソロー的で、どちらがマルサス的でしょうか?
この問いは、エネルギー問題のある側面を語っているようです。
実は、原子力を推進しようとする人々も、原子力をやめて自然エネルギーにシフトしようとする人々も、技術革新を必要としてるのです。
原子力発電は、安全性の確保や廃棄物の処理について、自然エネルギーは発電効率や基本的な設備・装置の生産性について、「主要なエネルギーとしての地位を確立」するためには、技術力が不足しています。
一方、双方とも「節約」の重要性を主張してもいます。
原子力推進派は、化石燃料枯渇の危機や、温室効果ガスの抑制を重視していますし、
原子力反対派は、放射性廃棄物の増加と拡散に危機感を持つと同時に、先進国の過剰な電力消費にも警鐘を鳴らします。
原子力推進派も、原子力反対派も、人類の可能性を信じ、一方で人類の限界を警告するという意味でソロー的でもあり、マルサス的でもあるのです。
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私見ではありますが、原子力推進派が主張する「発電コストが安い」という主張には疑いの目をもっています。
福島の原発事故現場では被害は拡大を続けていると言えますし、除染や被害者補償には目処がたっているようにはとても見えません。
昨年発表されたKwあたりの発電コスト計算では、廃炉費用や事故リスクが算入されていますが、そもそも終わりが見えていないものを「算入した」と言えるのでしょうか。
(報告書では、事故補償費用が想定の2倍になっても火力より原子力のほうが安価だとしています)
アメリカでは市場主導の電力供給選択の結果、廃炉が増え、新規建設が中止になる傾向にあります。ビジネスライクな視点で見ても、原子力のコストが安い という主張は過去のものになりつつあります。
原子力発電を推進するかどうか。
この問題の本質はここにあるように思います。
コストや安全性について、市民レベルではもちろん、学術的にも判断基準を統一することができないのです。
よく、原子力発電の安全性について議論する際に、「自動車は1年間に1万人も死ぬのに利用をやめない。原子力はそんなに死なない」という奇抜な主張がありますが、自動車と原子力の根本的な違いは「そのリスクを市民レベルで判断できるかどうか」にあるのではないでしょうか。
PLANT LABOは、原子力の推進か原発ゼロか についてどちらかに偏った研究を予定していませんが、
あえて、現段階で主張を明確にするならば、原子力発電は廃止するべきだと考えています。
その理由は、安全性でもコストでもなく、
「判断を我々が共有できるレベルの技術ではない」からです。